原爆にリアリティを感じる? − 「夕凪の街桜の国」を読んで

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

映画にもなりましたが、そちらもまだ見ていません。
じわじわと迫ってくる話でした。
広島の原爆にまつわるお話。


この本の中には、原爆でおこった具体的な被害の様子は描かれていません。
絵もほのぼのとした可愛らしい絵で和みます。
でも表面的な怖さではない、根深い恐ろしさがあります。
普通の人生を送れるはずだったのに、少しずつ、原爆のせいで歯車が狂っていく。
本人が望んでそうなったわけでもないのに。


作中にこんな一文があります。

わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ


「生き残ってしまった。助けられなかった。」
生き残ったことは何も悪いことではないのに、生きているがゆえに自分を責めなければならない。
そして被爆したから受ける差別。
子孫に影響が出るかもしれないと結婚を拒まれ、変形した容姿で敬遠される。
なぜ広島の人たちはこんな罪を背負わなければいけなかったのでしょうか。


私は被爆三世です。
広島では小学校から平和教育があり、しっかりと原爆の恐ろしさを叩き込まれました。
それがトラウマになっていていまだに原爆資料館には行くことができません。
一度も祖母に原爆の話を聞いたことはありません。
祖母も一言もいいません。
もし祖母が原爆症で亡くなっていたら、私はいません。
聞くことは大切なことだと知っています。
でも、自分の存在に影響があったかもしれない話を聞くのは怖いのです。
怖いからといって目を背けてはいけないと最近は思っています。
しかし祖母から話を聞くのはやっぱり怖い。言いたくないかもしれないし…。


多くの人にはリアリティのない話だと思います。
一部の反戦主義者が反対しているだけという認識の人も多いでしょう。
私も、普段原爆のことを考えることはありません。


原爆は戦争を終わらせるためには仕方なかったと思っている人が多いことは知っています。
そういう考え方もあるだろうと思います。


でも本当に「仕方ない」で人を殺すことは仕方ないんでしょうか?
それも原爆や地雷やクラスター爆弾劣化ウラン弾のように、生き残った人や子孫に後遺症を残す方法で。
今すぐに戦争や兵器をなくすことは現実問題として無理でしょう。
そこで仕方ないとあきらめてしまっていいのか。
簡単に解決できない問題だからこそ、それと向き合っている人を蔑んではいけないし、
しょせん理想だと言い切ってしまってはいけないのではないかと思います。


私にはリアリティがあります。
ありすぎて、その問題に正面から取り組むのはとても辛い。
65年が経ってもまだこういう陰を落とすところに、原爆の恐ろしさの本質があります。


みなさんはリアリティを感じますか?