読書会に参加させていただいてから、読書量が増えました。
他の方が読まれている本を読むのも楽しみの一つです。
本を意識して読むようになって、「読書論」の類も読むようになりました。
@sazanamiさんに紹介していただいた「読書と社会科学」を読み、
自分がどう読書と関わっているか再認識しました。
- 作者: 内田義彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1985/01/21
- メディア: 新書
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この本では、本を読む方法として、
「情報として本を読む」「古典として本を読む」の二通りに分類されています。
情報とは新聞のように誰から見ても明らかになるように書き記された本、
古典とは本の新旧に関わらず状況によって複数解釈でき、読むたびに発見がある本です。
もちろん人によってどの本がどちらにあたるかは、変わってくるでしょう。
私にとって「古典」に当たる本はなんだろうと考えてみました。
真っ先に思い浮かんだのは「ドラえもん」です。
読むと子供の頃のワクワクとした好奇心を甦らせてくれますし、
また大人になってから意味がわかるようになった言葉もあります。
本当に読むたびに新鮮な気持ちを呼び起こさせてくれることに驚きます。
みなさんにもそういう本はありますか?
一冊を通して、読書とは自分の中に概念装置を作る行為だと主張されています。
概念装置とは著者の造語です。
自然科学は顕微鏡や温度計などの計測装置があるのにもかかわらず、
社会科学においてはそういう装置は当然なく、学者が自分の心の中にそれを設置する必要があると述べられています。
自分の中の基準とか、考え方、フレームワーク、ものさし、という言葉でも言い換えられるでしょう。
読書によって心の概念装置を作るには、その本の主張を一旦受け止め、
自分の頭で理解し受け入れていく必要があります。
「なぜそうなるのか」という疑いを持ちながら、「だからそうなるんだ」という発見をしていく。
考えてみると、私は本を読むときに
この著者はなにを主張しようとしているのか、その主張に自分は賛同できるのか、
ということを考えながら読んでいたことに気づきました。
だから読書がひとつの人生体験になっています。
自分とは異なる考え方でも、一旦受け止めてみることで良さが見えてきます。
受け止めた上で、やはり賛同できない・尊敬できないという本もあります。
文中に「徹底して固執せず、白眼で、万事にほどよく適当に接して、この一事に青眼の構えで対決することを嫌う」という
日本人の性質について触れられています。
すべての考えを批判的に見、それぞれの考えと適度に距離を置く。
しかし、それは物事に真剣に対峙していないのだと説かれています。
それは見方を変えると、結局自分の意見がないと言えるでしょう。
大切なのは本の主張に飲み込まれることではなく、
自分が本を飲み込んで、自分の力を生み出し、自分の考えを作っていくことではないかと思います。